montokokoroの日記

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映画感想。「映画大好きポンポさん」

映画「映画大好きポンポさん」見た。

ネットフリックスは偉大。

 

あらすじ

映画の街ニャリウッドの映画製作会社ペーターゼンフィルム。B級映画ばかり作っているが腕は確かな映画プロデューサーのポンポは新作映画の脚本を完成させる。彼女が監督に選んだのは普段彼女のアシスタントをしているジーンだが、初の監督でジーンは戸惑ってしまう。同じくポンポが抜擢したヒロイン役のナタリーも初めての映画出演に戸惑っていた。果たしてどんな映画が出来てしまうのか。そもそも完成するのか。

 

感想(ネタバレ)

 

 

狂気じみてる。ジーンの奇行をずっと見せられる。クリエイターって皆こうなのか?

ジーンはヒロアカの主人公、緑谷出久から筋肉をそぎ取って目の下にクマを付けた感じ。華やかな映画の街で1人だけじめじめしてる。めちゃくちゃ映画オタクで感想とか撮影技法をノートにメモしてる。

普段はきょどってて自信が無くて、ザ・陰キャって感じのジーン。だけど、めちゃくちゃ作品に対してストイックで、監督就任してから周りに(主にポンポとスポンサーに)めちゃくちゃ迷惑をかける。撮影は結構順調だった。問題はそれから。撮影した映像を編集するジーンだけど、彼の奇行はここからが本域だった。まず、編集が終わらない。撮影が良すぎて、シーンを削れない。

その上で足りないシーンがあるので追加撮影したいとか言い出す。スタッフの管理はプロデューサーのポンポの仕事なのでめちゃくちゃ負担になる。解散したスタッフと俳優をもう一度招集するってめちゃくちゃだ。しかも彼女の脚本に、いまさら不足があるって言ってる訳なので。で、追加撮影のためにスケジュールがおして、スポンサー向けの試写会が中止に。スポンサーは降りて、追加撮影も宙ぶらりんになる。

スポンサーは結局ジーンの同級生で銀行員をしているアランのおかげでどうにかなったけど、スポンサーが降りるのも理解出来る。元々初監督と初映画の女優という不安しかない状況で、試写会出来ませんでしたーだからね。スポンサーがどうにかなって追加撮影もなんとか出来た(撮影はどうにかなっちゃうのがすごい)。で再びジーンの編集作業。徹夜は当たり前で集中。でも集中しすぎて過労で倒れて入院する。ここで誰かに譲ったら自分の作品じゃなくなるって、病院から抜け出して編集。なんとか2度目の試写会には間に合った。ここも、試写会に間に合わせるために病院を抜け出した訳では無い。あくまで自分の作品にするため。

こんな感じでした。ポンポさんの幼少期の話と映画に懸ける思い、同級生のアランの現状への不満とスポンサー確保のために覚悟を決めたプレゼン、初映画の素人女優ナタリーとか、その辺りの話も面白かった。でも、それはジーンの奇行と覚悟のおまけ程度。

ジーンの奇行の一方で、この映画の主題は良い作品を作るために他のあらゆるものを捨てる覚悟の話。ジーンは映画のために他の一切を自ら捨ててきた。青春、友人、家族。それほど映画が好きだった。対照的なのはスポンサーをどうにかした銀行員のアラン君。ハイスペックで社交的で、大手の銀行員になってる。彼は彼で現状の自分を空虚だと思っている。それを変えるための勇気と覚悟のプレゼンだった。首になってもおかしくなかった。

撮影した映画もそういう話だった。世界的な指揮者が傲慢さで失敗し、スイスの田舎でヒロインと出会い何かを取り戻し復帰する。でも、音楽のために家庭を捨てた過去もそのままだ。

等価交換。良い作品のため、自分の表現のため、他の一切を捨てる。

こういう生き方は、挫折した時つらそうだ。何も捨てず、何も選ばずゆっくり腐っていくニートはこういうスタンスは想像するしかない。映画のために他のすべてを捨てたジーンから映画を取り上げられた時が来たら、彼はどうするのだろうか。スイスの田舎に行くのだろうか。それともニューシネマパラダイスでも観るのだろうか。

ジーンの迷惑千万な奇行にもかかわらずポンポやスタッフ、役者たちは彼を憎んでいない。それは彼の映画にかける一途さと確かな腕を買ってるからだ。

エヴァ庵野もそんな感じなのかもしれない。

クリエイターの狂気を観た。そんな映画だった。

 

今年初めての観た映画だった。映画というか映像作品に対して思うことがあったのでしばらく観なかった。それは音楽について。私は感動的なシーンではなく、その時かかっていた曲に感動しているのではないかと思ってから、しばらく映画を観る気になれなかった。ポンポさんでもそういうシーンが何度かあった。自分の中で確かに感動は起こっている。けれどこの感動は別にこのシーンが原因ではなく、後ろでかかっている挿入歌のサビのせいではないのか。山場ではある。驚きもある。でも、感動するほどのシーンなのかと考えた時にどうしても挿入歌が邪魔に思えてしまう。特に日本語の歌詞付きの歌はそう思えてしまう。作中の会話を追いながら、日本語で歌っている歌詞の方の意味や雰囲気も感じ取ってしまう。「君の名は」は当時映画館で観てすごく感動した。けど、私は映画に感動しただろうか。RADWIMPSの曲が適切なその時の感情を指示し、それに従ったに過ぎないのでは無いか。なら、それは映画というよりRADWIMPSの壮大なPVではないか。

そういったことを思ってしばらく映画を観る気になれなかった。なぜ今回ポンポさんを観たのだろうか。正直明確な動機があるわけではない。多分、ネトフリの月謝払い続けてるのに何も見ないのもったいないし、解約も面倒だったからというのが一番正直な理由かもしれない。あと、悩んだり考えたりし続けるのは疲れる。しかもこの問いはめんどくさい。曲に感動してもいいじゃん、とも思う。挿入歌もBGMも映画の一部じゃん。それに心を動かされるのがなぜ行けないの?

映画を観る動機は常に一定な訳が無い。暇だったからというのも大きい。何が原因で感動するかも一定なはずがない。その時の自分にも大きく左右される。動機、因果、自分のポリシー。そういったものは一定ではない。

 

終わり。