montokokoroの日記

悶モンって名前でTwitterしてます

サン=テグジュペリと宮崎駿の飛行機

宮崎駿にとっての飛行機とは何だろうか。

そんなことを思った。

きっかけはある一冊の本。サン=テグジュペリの「人間の土地」。

新潮文庫から出ている、堀口大學訳の本。原書の初出は1939年のフランス。今回読んだ版での初版は1955年で、古い。読みづらさはかなりあったが、良い文章だった。本の末尾、訳者のあとがきの後、宮崎駿の寄せ書きがあった。その文を読んで、「風立ちぬ」と「紅の豚」を見返した。

ちなみに「人間の土地」はいろんな出版社から出ている。光文社古典新訳文庫から2015年に渋谷豊訳で、「人間の大地」というタイトルでも出ている。そっちなら、もう少し読みやすかったかもしれない。

 

本の内容は作者のサン=テグジュペリの仕事である郵便飛行の体験が元になっている。

郵便飛行は手紙とかを飛行機で輸送する仕事で、他の輸送手段より速いことが売りだったらしい。地中海付近のヨーロッパ、アフリカ、そして南米まで、大西洋を中心にかなりの距離を飛んでいた。

書かれたのは第一次世界大戦と第二次大戦の合間の時代。この辺りの解説は本の最後に書かれていた宮崎駿の解説による。第一次大戦で数十万機作られた飛行機は現代からするとかなりいい加減なものだった。貧弱ですぐ故障するエンジンに、木と布で作られた凧のような機体。それに武器を搭載して戦争をしていた。

戦争が終わり、郵便飛行という役目を与えられてからも飛行機の安全性は安定してなかった。作中で郵便飛行のパイロット達は何度も墜落や遭難をし、事故で死亡することもある。機体の安全性の他に、輸送ルートが未確定だし、通信技術や天気の予想なども現代からすれば不安定だっただろう。とにかく危険な仕事だったことが分かる。大戦中はもちろん命がけだが、一時の平和な時代でも、まだ飛行機は危険だった。1章の「定期航空」を読めば、燃料計さえ適当だったことが分かる。

そんな状況でも飛行機に乗っていた人達の仕事ぶりや生き様が本を通して伝わってくる。

もちろん本文も面白かったのだが、最後に書かれていた宮崎駿のあとがきが印象深い。「空のいけにえ」というタイトルの数ページだけのあとがきだが、これが面白かった(これが書かれたのは1998年で、「紅の豚」の公開が1992年)。二度の大戦での飛行機という兵器の活躍と、その間の時代における郵便飛行。役目は大きく違っても、危険であることは代わりない。それなのに、なぜ人は飛行機を作るのだろうか。なぜ多くの人がパイロットになり、死んでいったのか。人は飛行機という乗り物に何を求めていたのか。そんなことを思って、「紅の豚」と「風立ちぬ」を見た。

 

紅の豚」と「風立ちぬ」では、主人公が見た夢の世界が描かれる。「紅の豚」では、ポルコは戦争中、味方と一緒に飛行機でパトロールをしていたが、敵機を発見し戦闘になる。激戦の中敵も味方も堕ちていく中ポルコも敵数機に追い込まれ,瀕死の状態になる。そんな中、ついに操縦も出来ずにそのまま飛びつつけていると、ポルコは雲の平原と表現する世界に辿り着く。下には一面なだらかな雲が広がっており、そのすれすれをポルコの飛行機はゆっくりと飛んでいる。静かな世界で、上を見上げれば一本の雲があるだけの深く青い空。その一本の雲は、よく見ると大量の飛行機の群れで、一緒になってどこか同じ場所に向っている。下の雲からゆっくりと味方と敵の飛行機がパイロットと一緒に浮かび上がってくる。その飛行機達は敵も味方もなく、ゆっくりと上の一本の雲へ向っていく。ポルコの飛行機はゆっくりと下の雲に落ちていき、正気に戻った時には、海の上を一人で飛んでいた。

その世界は死んでいった飛行機とパイロット達の死後の世界で、とても綺麗で、静かな世界だ。敵も味方もなく、飛行機が一緒になってどこかへ向っている。しかしポルコはその世界を「地獄だったかもしれねえ」と言い、お前はそのままずっと一人で飛び続けるんだと、神に言われている気分だったとも言う。

風立ちぬ」では主人公の堀越二郎が、憧れの飛行機設計士のカプローニ伯爵と出会う夢の世界が、作中何度か描かれている。そこもなだらかな平原で、お互い設計した飛行機を自由に飛ばせる世界だ。ポルコの雲の平原より賑やかで、華やかな場所だ。飛行機の設計士にとって夢のような空間だが、二郎もポルコのように、その世界を「ここは地獄かもしれません」と評する。二郎はパイロットではないが、第二次大戦におけるゼロ戦を作った設計士だ。ゼロ戦に乗った多くの若い日本人兵士が、戦争で死んでいった。その飛行機を二郎は作ったのだ。

二人とも飛行機の美しさやその生き様に強く惹かれている。飛行機に魅せられた二人にとって、もはやそれ抜きで生きてはいけない。しかし常に危険は隣にあり、多くの犠牲の上に飛行機は成り立っている。

そんな似た作品だが、一カ所、大きな違いがある。それは戦争に対する意識だ。「紅の豚」では、明らかに反戦的な態度だ。ポルコは旧友から、お尋ね者の危うい立場からイタリア空軍に転身するようスカウトされるが、ファシストには従えないと断る。空賊退治や飛行艇での決闘でも、「俺たちは戦争屋じゃない」といって、機体だけを破壊し人を殺すことはない。

対して「風立ちぬ」の二郎は、戦争にあらがうことはしない。かといって好戦的でもない。太平洋戦争に向う日本という国の中で、戦争というものを自然と受け入れていたような気がする。美を愛する二郎は、争いごとは嫌いだが、戦争に向う日本を止めようとも、他の国に逃げるでも、戦闘機の開発をやめるでもない。戦争の中の日本において、設計士として出来ることをやり切ったのだ。その結果出来た飛行機のほとんどが、パイロットごと死んでいく事実も受け入れているような気がする。その中でも、生きていくのがこの作品だ。

宮崎駿の父親は戦闘機の部品を製造する工場を経営しており、駿は太平洋戦争の時にその様を見て育った。その辺りのことは「君たちはどう生きるか」で描かれている。彼の中で、飛行機とは何だろうか。彼はきっと飛行機が好きだ。そのデザインや飛んでいる様に美しさを感じ、感動しているだろう。一方で、戦争に使われて多くの犠牲者を出している事実もある。その、相反する思いは「風立ちぬ」で描かれている。何かを割り切るような描かれ方ではない。駿は自分や飛行機を求めてきた人達の中にある野蛮さを認めている。速さや攻撃性という、戦闘でのメリットが飛行機開発を進めていき、それを求める自分の野蛮さを認めている。そこにあるのは狂気だ。飛行機の美しさと攻撃性。そのどちらも求めている。夢の世界を地獄かもしれないと言ったポルコや二郎もその狂気を持っている。美しさだけでなく、狂気が飛行機を推し進め、それらを求められた時代があった。二つの作品からそんなことが伝わってきた。

「人間の土地」では、それほど戦争に絡めて飛行機を語ってはなかった。そういうエピソードもあるが、あくまで郵便飛行での飛行機とそのパイロットに関する話、そしてその生き様が中心だ。なので、宮崎駿や戦争と関連して語るのは違った見方かもしれない。しかし、私はこの本を読んで宮崎駿、そして飛行機と戦争のことについて考えていた。

結局、宮崎駿にとっての飛行機とは何なのか、分かりきることはない。「風立ちぬ」で完全に描ききったのなら、「君たちはどう生きるか」であそこまで描くことはないだろう。彼の飛行機への興味は終わることはなく、常に微妙に変化していっているのかもしれない。

そんなことを思った。

 

終わり。