montokokoroの日記

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絶滅

絶滅していった数多くの種のひとつくらい、種を存続させることの無意味さに気付いて絶滅してて欲しい。住む場所が無くなったからとか、他の種に負けたからじゃなくて、終わろうとして終わってて欲しい。

 

国、民族、血族、、、。そういった共同体にとって構成員の数が減らないことに意味はある。まず、安定性が生じる。構成員にとって、その共同体に属するメリットとして安心感は大事だ。共同体が昔から存在し、今後も存在するだろうという安心感。伝統に身を委ねることは思考の放棄だ、と言い切ることが出来るだろうか?次に、競争相手に数で勝れば優位になる。戦は数が基本なので。そんな感じの意味、メリットはいくらでもあるだろう。

共同体という枠組み自体が存続させるために構成員に子孫を繁栄させ共同体を維持しようとしているともいえるかもしれない。この考えはメタルギアソリッド2のやりすぎだ。しかし、仕組みという力場が生み出す指向性に、個人があらがうことは容易ではない。仕組みそのものが生き残ろうとしている。

 

生き残ることに意味も目的もなく、かなり場当たり的に生命は維持されてきた。これって意味ある?無いよね、じゃあ、終わろっかつって絶滅した種がいたら、かなり面白いなあと思った。どうしようもなく生まれて、でも意味は無くて、じゃあ勝手に終わろっかって。

 

そういう意味でカート・ヴォネガットの「タイタンの妖女」は最高だった。目的とか意味とかを全力で茶化す。それってかなり悲しくて受け入れがたいけど、どうしようもなく受け入れるしかなくなった時巨大な空しさと少しの笑いが生まれる。自分の一番内側の大事な小さい部品みたいなものが滑稽に思えてきて笑えてくる。

thebirthdayのチバユウスケの歌詞もそんな感じのものが多い。終わっていく世界の光景は綺麗で、隣に好きな人がいて一緒に眺めているような。世界を終わらせようなんてしない。勝手に終わるだろうからそれを待ってる。

 

なんでこんなこと考えたんだろう。

生み出される前に終わり方が定まっていないものへの嫌悪かもしれない。終わり方が決まっているのは役割が与えられているという場合が考えられる。その役割を達成したなら、終わっていいよ、そのために生まれたんだから。道具は。目的があり、果たせば棚の中にしまえばいい。使えなくなったら捨てていい。私の終わりが定まってないのは場当たり的で目的がないからだ。

終わりが定まってないなら。終わりが近づいた時に惨めに足掻くのだろうか。それとも周りも道連れに終わらせようと暴れ出すのだろうか。その時そんな自分を笑えるだろうか。

 

数世紀前より私達はいろんな事が自由で、自分で決められる。住む場所も仕事も趣味も他人とのつきあい方も、結構なことが自由だ。そんな中死に方だけは選べないのはおかしいっていうのが安楽死賛成派の意見なのだろうか。

 

別に死にたくなってきたとかではないが、そんなことを思い夜が耽っていく。