montokokoroの日記

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April

The Birthday の『April』を買った。その感想。

 

まず、存在が嬉しい。前作『月夜の残響』をライブ映像目当てに買った。その後、チバが食道ガンで活動休止して、去年の12月に死去したことが報じられた。それが最後のCDかと思った。そこに新作CD発売のニュース。生前レコーディングした分が今回の楽曲らしい。

当初のスケジュールでは2023年の4月に『April』、9月に『September』を発表する予定だったらしい。今回の『April』には他の曲があったかもしれないし、『September』は全部分からないままだ。しょうがない。

曲の前にまず、ジャケ写がかっこいい。表は空の写真。太陽と雲、1羽の鳥。裏は太陽の日が反射している海。

荒れている海岸をイメージした。海水浴客がいっぱいいるような晴れやかな砂浜のビーチじゃない。切り立った崖を、荒波が削るような海岸だ。突風が吹きつけ、雲は猛スピードで空を流れる。雲の合間から時々太陽が海を照らす。そこを1羽の鳥が空高く飛んでいるようだ。

 

曲は全部で3曲。全部YouTubeで聞ける。『I saw the light』はPVがかっこいい。

最初の曲は『サイダー』。

ゆっくり目で好きなテンポだ。サビのあたりとかなんとなく『プレスファクトリー』っぽい。

歌詞にバンドメンバーが出ているのかな。とさかはクハラのモヒカンで、190の大柄男はアベなのかな。

他のメンバーはどうかは知らない。分からない。でも、アベとクハラなら面白い。そこに混ざって笑ってるチバもイメージ出来る。

サイダー(炭酸水)はロックっぽい。炭酸がはじける時の刺激と爽快感、のどごしの良さはロックバンドの音だ。

 

2曲目は『S.P.L』

激しめで好きな音楽。

『LOVE ROCKETS』の世界観と近い。愛で人は狂う。それはチバの持論なのか。

SPL=sweet pink love?

後半急にゆっくりになって、最後また颯爽と駆け抜ける。緩急が気持ちいい。

狂いまくる曲だ。

 

最後は『I saw the light』

2分くらいの曲。ロックバンドって感じの音楽だ。

歌詞をリフレインさせるチバらしさと、とことんそぎ落とされた短い曲。

最後の曲だと分かった上で聞いていたが、はじまりの曲みたいだ。十数曲入っているアルバムの、最初に流れる曲みたいだと思った。それか前半と後半でガラっとイメージが変わる間に挟まれるような。

とにかく、何かが始まりそうな予感がする。でも、これが最後の曲だ。ぽつりと取り残されるようだった。

激しい音楽とシンプルな歌詞。その中に何かを予感させながら、爽やかな印象を残してさっと駆け抜けていった。

 

歌詞カードも良かった。白黒の白の部分を青色に加工している。光と影の印象が突きつけられる。

CDで聞いた後に『I saw the light』のPVをYouTubeで見た。光と影はチバのテーマとしてあるんだろう。写真を撮るのが趣味と何かのインタビュー記事で言っていた。モノクロで取ることで光と影を表現することが多かったとか、言っていた気がする。

音は光で、静寂は暗闇だ。暗闇を照らすような光がパッと一瞬駆け抜ける。暗闇の中で何かを一瞬照らして、影が現われる。

音は一瞬の光で、音楽はその組み合わせで出来ている。光の雨が様々な角度から暗闇を駆け抜け、色んな影を映し出す。その連続の中で、光と影から暗闇の中の何かの正体が分かる。

そんな気がした。チバは光をつかんだ。

 

以上が感想。

色々書いてるけど、音楽のことはよく分からない。ギターとベースの違いもよく分かってない。

The Brithdayの曲も全部は聞いていない。ここ数年のは大体聞いたけど、前半の曲を時々聞くと、かなり曲調が違くって同じバンドとは思えない。TMGEとかROSSO、SNAKE ON THE BEACH、その辺りの曲はほとんど聞いてない。まだ、知らないチバユウスケが残されている。良いことだ。ゆっくりと聞いていこうと思う。

あと、CDには写真集が付いてた。ライブで演奏中の写真とか、舞台裏、休憩中の写真。結構ボリュームがあった。時々ぱーっとめくって眺めている。

それと、タワーレコードで買って、缶バッジが貰えた。こういうのって、残してても錆びるだけなんだよな。バッグにでもつけようかな。悩む。

 

終わり

サン=テグジュペリと宮崎駿の飛行機

宮崎駿にとっての飛行機とは何だろうか。

そんなことを思った。

きっかけはある一冊の本。サン=テグジュペリの「人間の土地」。

新潮文庫から出ている、堀口大學訳の本。原書の初出は1939年のフランス。今回読んだ版での初版は1955年で、古い。読みづらさはかなりあったが、良い文章だった。本の末尾、訳者のあとがきの後、宮崎駿の寄せ書きがあった。その文を読んで、「風立ちぬ」と「紅の豚」を見返した。

ちなみに「人間の土地」はいろんな出版社から出ている。光文社古典新訳文庫から2015年に渋谷豊訳で、「人間の大地」というタイトルでも出ている。そっちなら、もう少し読みやすかったかもしれない。

 

本の内容は作者のサン=テグジュペリの仕事である郵便飛行の体験が元になっている。

郵便飛行は手紙とかを飛行機で輸送する仕事で、他の輸送手段より速いことが売りだったらしい。地中海付近のヨーロッパ、アフリカ、そして南米まで、大西洋を中心にかなりの距離を飛んでいた。

書かれたのは第一次世界大戦と第二次大戦の合間の時代。この辺りの解説は本の最後に書かれていた宮崎駿の解説による。第一次大戦で数十万機作られた飛行機は現代からするとかなりいい加減なものだった。貧弱ですぐ故障するエンジンに、木と布で作られた凧のような機体。それに武器を搭載して戦争をしていた。

戦争が終わり、郵便飛行という役目を与えられてからも飛行機の安全性は安定してなかった。作中で郵便飛行のパイロット達は何度も墜落や遭難をし、事故で死亡することもある。機体の安全性の他に、輸送ルートが未確定だし、通信技術や天気の予想なども現代からすれば不安定だっただろう。とにかく危険な仕事だったことが分かる。大戦中はもちろん命がけだが、一時の平和な時代でも、まだ飛行機は危険だった。1章の「定期航空」を読めば、燃料計さえ適当だったことが分かる。

そんな状況でも飛行機に乗っていた人達の仕事ぶりや生き様が本を通して伝わってくる。

もちろん本文も面白かったのだが、最後に書かれていた宮崎駿のあとがきが印象深い。「空のいけにえ」というタイトルの数ページだけのあとがきだが、これが面白かった(これが書かれたのは1998年で、「紅の豚」の公開が1992年)。二度の大戦での飛行機という兵器の活躍と、その間の時代における郵便飛行。役目は大きく違っても、危険であることは代わりない。それなのに、なぜ人は飛行機を作るのだろうか。なぜ多くの人がパイロットになり、死んでいったのか。人は飛行機という乗り物に何を求めていたのか。そんなことを思って、「紅の豚」と「風立ちぬ」を見た。

 

紅の豚」と「風立ちぬ」では、主人公が見た夢の世界が描かれる。「紅の豚」では、ポルコは戦争中、味方と一緒に飛行機でパトロールをしていたが、敵機を発見し戦闘になる。激戦の中敵も味方も堕ちていく中ポルコも敵数機に追い込まれ,瀕死の状態になる。そんな中、ついに操縦も出来ずにそのまま飛びつつけていると、ポルコは雲の平原と表現する世界に辿り着く。下には一面なだらかな雲が広がっており、そのすれすれをポルコの飛行機はゆっくりと飛んでいる。静かな世界で、上を見上げれば一本の雲があるだけの深く青い空。その一本の雲は、よく見ると大量の飛行機の群れで、一緒になってどこか同じ場所に向っている。下の雲からゆっくりと味方と敵の飛行機がパイロットと一緒に浮かび上がってくる。その飛行機達は敵も味方もなく、ゆっくりと上の一本の雲へ向っていく。ポルコの飛行機はゆっくりと下の雲に落ちていき、正気に戻った時には、海の上を一人で飛んでいた。

その世界は死んでいった飛行機とパイロット達の死後の世界で、とても綺麗で、静かな世界だ。敵も味方もなく、飛行機が一緒になってどこかへ向っている。しかしポルコはその世界を「地獄だったかもしれねえ」と言い、お前はそのままずっと一人で飛び続けるんだと、神に言われている気分だったとも言う。

風立ちぬ」では主人公の堀越二郎が、憧れの飛行機設計士のカプローニ伯爵と出会う夢の世界が、作中何度か描かれている。そこもなだらかな平原で、お互い設計した飛行機を自由に飛ばせる世界だ。ポルコの雲の平原より賑やかで、華やかな場所だ。飛行機の設計士にとって夢のような空間だが、二郎もポルコのように、その世界を「ここは地獄かもしれません」と評する。二郎はパイロットではないが、第二次大戦におけるゼロ戦を作った設計士だ。ゼロ戦に乗った多くの若い日本人兵士が、戦争で死んでいった。その飛行機を二郎は作ったのだ。

二人とも飛行機の美しさやその生き様に強く惹かれている。飛行機に魅せられた二人にとって、もはやそれ抜きで生きてはいけない。しかし常に危険は隣にあり、多くの犠牲の上に飛行機は成り立っている。

そんな似た作品だが、一カ所、大きな違いがある。それは戦争に対する意識だ。「紅の豚」では、明らかに反戦的な態度だ。ポルコは旧友から、お尋ね者の危うい立場からイタリア空軍に転身するようスカウトされるが、ファシストには従えないと断る。空賊退治や飛行艇での決闘でも、「俺たちは戦争屋じゃない」といって、機体だけを破壊し人を殺すことはない。

対して「風立ちぬ」の二郎は、戦争にあらがうことはしない。かといって好戦的でもない。太平洋戦争に向う日本という国の中で、戦争というものを自然と受け入れていたような気がする。美を愛する二郎は、争いごとは嫌いだが、戦争に向う日本を止めようとも、他の国に逃げるでも、戦闘機の開発をやめるでもない。戦争の中の日本において、設計士として出来ることをやり切ったのだ。その結果出来た飛行機のほとんどが、パイロットごと死んでいく事実も受け入れているような気がする。その中でも、生きていくのがこの作品だ。

宮崎駿の父親は戦闘機の部品を製造する工場を経営しており、駿は太平洋戦争の時にその様を見て育った。その辺りのことは「君たちはどう生きるか」で描かれている。彼の中で、飛行機とは何だろうか。彼はきっと飛行機が好きだ。そのデザインや飛んでいる様に美しさを感じ、感動しているだろう。一方で、戦争に使われて多くの犠牲者を出している事実もある。その、相反する思いは「風立ちぬ」で描かれている。何かを割り切るような描かれ方ではない。駿は自分や飛行機を求めてきた人達の中にある野蛮さを認めている。速さや攻撃性という、戦闘でのメリットが飛行機開発を進めていき、それを求める自分の野蛮さを認めている。そこにあるのは狂気だ。飛行機の美しさと攻撃性。そのどちらも求めている。夢の世界を地獄かもしれないと言ったポルコや二郎もその狂気を持っている。美しさだけでなく、狂気が飛行機を推し進め、それらを求められた時代があった。二つの作品からそんなことが伝わってきた。

「人間の土地」では、それほど戦争に絡めて飛行機を語ってはなかった。そういうエピソードもあるが、あくまで郵便飛行での飛行機とそのパイロットに関する話、そしてその生き様が中心だ。なので、宮崎駿や戦争と関連して語るのは違った見方かもしれない。しかし、私はこの本を読んで宮崎駿、そして飛行機と戦争のことについて考えていた。

結局、宮崎駿にとっての飛行機とは何なのか、分かりきることはない。「風立ちぬ」で完全に描ききったのなら、「君たちはどう生きるか」であそこまで描くことはないだろう。彼の飛行機への興味は終わることはなく、常に微妙に変化していっているのかもしれない。

そんなことを思った。

 

終わり。

2月 4年に一度の閏日

今日は2月29日で、閏日。4年に1度しかない日。

そんな日に何をしてたかというと、家にひき籠もって、ゲームばっかしてた。

今月は久々に触ったスプラ3にドはまりしてた。最近使い始めたクーゲルシュナイバーはいい武器だ。2段階射程とかいう仕組みとジェットパックというクセのあるスペシャルがいい。サブも炭酸ボムで隙が無い。普通に強い。メインが2段階なのが面白い。短射程のキル速の速さと塗りの強さは普通に強いし、大抵の敵には長射程モードで近寄らせずに戦える。長射程モードだとキル速も射程もハイドラには勝てない。しかし、あらゆる状況でも戦えるバランスの良さがクーゲルにはある。

大抵の敵には、射程を押しつけて近寄らせない。近づいてきた敵や不意打ちにも短射程で戦える。ハイドラやリッターなど、射程で勝てない相手には炭酸で嫌がらせしたり、スペシャルのジェットパックで挑める。着地狩りされそうになっても、ギアに受け身術を着けているので、さっと避けて短射程モードで逆に返り討ちにすることも出来る。

問題はギアの選択肢があまりないことだと思う。ジェットパックには受け身術と、スペ強が必須級のギア。スペ強がないと、爆破範囲が狭いし、受け身術がないと着地で何も出来ない。元々、ジェットパックの発動地点はなるべく安全な所でするように気を付けているけど、それでも発動中に寄られることもある。それに対応できる受け身術は必須だと思う。もう1つのメインギアは人速にしてる。これもスピナー系には必須。残りのギアはお守り程度なのであまり大差がない。クーゲル・ヒューの方にすればおそらく、ギアの選択肢はもっと増えるんだけど、ヒューは露骨にメイン一本で戦う感じだ。サブはトラップだし、スペシャルはキューインキだし。というか、キューインキを扱える気がしない。

個人的に苦手なのは長距離のブラスター。ジェットパックが普通に打ち落とされる。あと、弓。トリストの曲射に何度もやられてる。弓使いはあまり下手な人がいないイメージがある。曲射とかスペシャルの使い時が上手い。よくやられる。

クーゲルとは別に新しく使ってたのはマニュコラ。ゾンビでツッコミまくるプレイが強くて面白い。

ジムとかいう覇権武器もいつか使いたい。結局、覇権武器を振り回すのが、一番の勝利への近道。好きな武器を工夫して強くするより、元々強い武器振り回して良い思いして、その武器を好きになる方が速い。クーゲルも覇権寄りで普通にゲキ強の部類なので、あまり工夫はいらない。強さを押しつけるのだ。

スプラに興味のない人には少しも分からない文章だし、知ってる人にはいまさらな文章だが、とりあえず今月は久々にスプラ3に手を出して、クーゲルを触ってた。

 

それとは別に、今月見た映画の話を。

ダイ・ハード」シリーズを全部見た。

おもしれーーー。ラスト・デイは初見だったが、1から4は久々に観た。

追い込まれた時に笑い出すマクレーンが好き。相手の気を何かから逸らすための演技なんだけど、追い込まれた場面で笑うマクレーンって良いよね。

それと、相手を殺して無線機を奪って、敵の親玉と会話するのも良い。毎回相手を煽りまくる。敵を怒らせる才能がある。実際、敵からしたら綿密に練られた計画に変な奴が横槍入れてきて、的確に邪魔してくるんだから怒るしかない。3以外ではマクレーンは最初は現場に偶然いるだけで、そこから騒動に巻き込まれていく。つまり敵も本人も想定していないイレギュラーなわけで。世界一ついていない男、世界一の悪運、そんな称号が似合う。

3以降は相方ポジションの味方がついて回るが、全員良いキャラしてる。3ではゼウス。頭が回るし知識も豊富で、マクレーンの穴をちょうど埋める感じがいい。マクレーン以上に熱い部分もあって、かなり面白いコンビだった。余談だが、3の中でアメリカの第21代大統領の名前が重要なヒントになるっていうくだりがある。マクレーンは知らないし無線で他の奴に聞けない状況で、途中巻き込まれたトラックの運転手があっさりと即答する。意外な奴が博識だったというシーンだ。これ、いまだとスマホで一発だな。3は1995年公開の映画で、こういう所に時代を感じる。

4の相方はマシューという若いハッカー。4はサイバー犯罪がテーマで、古いマクレーンと良い対比になってる。2の時も、ファックスをたどたどしく使ってて、最新のテクノロジーには疎いマクレーン。それに対してマシューはハッカーで、普段ネットばっかしてそうな感じの、斜に構えてへらへらした態度の男だ。そんなマシューだが、マクレーンに巻き込まれる内に、段々男前になっていく感じがいい。彼も知らずの内に犯人達の計画に加担しており、その重みを自覚してマクレーンに協力する。その過程が良い。マクレーンは全部物理的にぶっ壊す。戦闘ヘリも戦闘機も車でどうにかしてしまった。

5はマクレーンの息子のジャックが相方で、ロシアでどったんばったん大騒ぎする。これはもう言うことがないくらい、どたばたのアクション映画だった。最初の裁判所襲撃からジャックのアジトまでのカーチェイスだけで30分くらいかかる。もっと事態の説明をして欲しいけど、細かいことはどうでも良い。そんな感じのテンションでずっと続く。3と4にあった、犯人グループの狙いを暴く謎解き要素とかが無かったけど、純粋なアクションって感じだった。

そんな感じで、ダイ・ハードを楽しく見てた。

 

他にも友達と旅行に行ったり、麻雀したりしてた。引きこもっているだけのニートではないのだ。旅行は友達の親戚の別荘に、その友達の車で行って、他の友達の釣り竿で釣りしてた。スネ夫に付いていって良い思いをするジャイアンの気分だった。何かお返しを出来るようになりたいが、何もない。まずは職からかな。

 

終わり。

日記。2024年1月。

日記。

 

1月が終わる。

今月は4冊ほど本を読んだ。

 

まず、凪良ゆうの「汝、星のごとく」。2023年の本屋大賞も取った名作。結構面白かった。

同じく本屋大賞2023で3位だった、一穂ミチの「光のとこにいてね」と、本の形が似ていた。どちらも主人公は2人。一方の視点から事件を描き、その後もう一方の視点からも話を描く。そして数年後に話飛んで同じ様に話を進め、30代くらいまでを描いて終わる。この形式がどちらも同じだった。

さらに、どちらも従来の恋愛観を崩したものを描いている。「光のとこにいてね」では女性同士の友情を超えた感情を描いているし、「汝、星のごとく」では従来の結婚感に疑問を呈し、他の在り方を提示している。いわゆる多様性だろうか。

「汝~」はそういった結婚感や男女の関係にまつわる世代交代の話かもしれない。まず、だらしなかったり、不安だったりで男に依存する母親という第一世代。次に、その両親から生まれた第二世代。これが主人公の男女の2人。この二人は両親からの負担に苦しんでいる。その負担とは精神的なものや金銭的なものなど様々な形で二人を苦しめ、人生を狭める。最後の第三世代は、それを乗り越え従来の価値観を克服し、柔軟な結婚感や人生観を獲得した世代。この世代はほんの少しだけ出てくる。

世代交代という見方は少し穿った見方かもしれない。実際主人公の間に子供はいない。しかし主人公の2人が乗り越えた問題を、次の世代は引き継いでくれた方が物語としては喜劇に近づく。

結果面白かった。本屋大賞は当たりが多い印象だ。そういえば。明日2月1日、本屋大賞2024のノミネート作品の10冊が発表らしい。その10作で順位を着けての大賞の発表は4月10日。忘れるまで覚えておこう。

 

次は川北稔の「砂糖の世界史」。砂糖がどう生産されてきたのかの歴史に関する入門書。

近代、砂糖は奴隷の犠牲で成り立っていた。南米やカリブ諸島を植民地にし、原生林をなぎ払う。そこに砂糖だけを植え、アフリカの奴隷を労働力にして生産する。かなり罪な生産物だ。

なぜイギリスでは紅茶に砂糖を入れて飲んでいたのか。お茶も砂糖も、イギリスでは生産しておらず、どちらもわざわざ外から持ってくる必要があるのに。本の後半ではそういう話になっていく。

これもかなり面白い本だった。岩波ジュニア新書は入門書として中高生でも読めるように作られているらしく、あまり難しい話はなかった。それでも興味深い内容だった。この本みたいな形式で、煙草やお酒の入門書を読みたい。あれって一体何なんだろうか。

他の2冊は、過去に読んだ本を再読した。円城塔の「屍者の帝国」は、いまいち良く分からない。気になったところを読み返したい。

 

ついでに、見た映画の話も。

「ジョーカー」をいまさら見た。ちょっと前に話題になってたなーと思ってたけど、日本での公開日は2019年の10月。4年位前じゃん。時の流れは残酷だ。

配信されてたのをパソコンで見た。いやー、映画館で見なくて良かったわ。そう思える鬱屈とした内容だった。そんくらい。暗い話だった。

 

ゲームはポケモンレジェンドアルセウスをクリアした。ゲームの内容は剣盾より好きかも。

んで、今はまたスプラ3にはまってる。しばらくまともな生活は出来なさそう。マニュウコラが面白い。

そんな感じの1月でした。久々のブログ更新で話しがあっちこっちいって、どれも半端だなあ。でも文章書くの疲れたのでこのあたりで。

終わり。

 

2023年の本ベスト約10冊。後編。

2023年の本ベスト約10冊。後編。
前回のブログで紹介した5冊の残り。どぞー。

 

6,蠅の王/ウィリアム・ゴールディング
南の無人島に不時着した数十人の子供達が、自分達の力だけで生きていく話。食料も豊富で猛獣もいない島なので、最初は大人の管理のない世界でただ楽しんで生活をしている。しかし、救助のための計画が上手くいかなかったり、皆で決めたルールを守らなかったり、段々と生活への不安が高まる。やがて子供達は二つの集団に分裂する。別れた方のグループはルールを無視し、狩りに興じ、暴力の楽しさを見いだし、やがて二つのグループ同士の戦いになる。
ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」によれば、原始的な社会では仮面と眩暈による遊びが社会の結束を強める。仮面とは自分を偽るための装いで、眩暈とは理性を弱めることだ。分離したグループのリーダーのジャックは、顔に不気味な化粧をして自分ではない人格をまとう。ルールを無視して、集団で狩りに勤しむ。本来なら、救助のために火を絶やさないことが大事なのだが。化粧で暴力的な自分を装い、そして集団で踊りながら、豚の真似をする子供を囲んで皆で殴る。そういう儀式で集団は狂気でまとまっていく。
最初はどの子供達も、ルールと理性で救助のために最適な行動を取ろうとしていた。しかし段々と不満が募り、最後には争いに発展していく。
読んでいてつらい話だったが、名作だ。そんな名作なのに、文庫で400pないのに1000円って。もうちょい安くしてくれ、ハヤカワepi文庫。この5年くらい、体感として本の値段が上がっている気がする。もうちょい安くならねーかなー。

 

7,偶然性の問題/九鬼周造
哲学書。偶然とは何かを考える書。形式としてはかなり読みやすかった。時々観念を図でまとめているのが面白い。章立ても綺麗だ。この章では何をしているのか、それはなぜ必要かのか、全体的に今何を論証しているのか、という話が分かりやすい。そういうパラグラフライティングが本当に綺麗で分かりやすい。
一方で、取り扱っている話自体は難しいし、引用も古今東西の様々な文献から持ってきており、それも理解が難しい。
哲学書の難しさは2種類あると思う。まず、取り扱うテーマや使われる語彙が難しい。これはある程度許容出来るというか、しょうがない。簡単に言えてしまえるものは問題になり得ないだろう。もう一つが文章の難しさだ。なんか、文学的にも評価されようとしてない?っていう文。分かりにくいからもっと簡潔に表現して欲しい。もっと文を分けて欲しい。補足なら補足と言って欲しい。導入とまとめをもっと意識して欲しい。とにかく、その2点の難しさが合わさると最強な文章が出来る。
文章の難しさという点では、この本は本当に綺麗だった。胡乱な表現もほとんど無かった。内容は滅茶苦茶難しいけど。
理解できない自分が悪いし、理解できない部分があってもいいと思う。分かる部分や、気を引く部分を丁寧に拾おう。こっちは素人なので。
この本の内容は難しかった。読んだ後の感想としては、偶然に身をさらすことへの恐怖が少し薄らいだ気がする。偶然への諦めの芽が自分の中に出来たかも。それでも依然として、偶然は怖いけどね。
時々、理路整然とした文章が荒れている所があった。そこはかなり熱血な文章になる。おそらく、その当たりの文章が、九鬼が一番声を大きくして主張したかったんだろうなと思う。

 

8、神々の沈黙/ジュリアン・ジェインズ
人類が意識を獲得したのは、およそ3000年前だ。それが本書の主張である。
本の最初では今までの哲学や脳科学が心身問題にどう取り組んできたのかを振り返り(原書は英語で1970年代に出版)、その上で「意識は〜ではない」という確認から始まる。この辺りのやり方は丁寧な手順だ。意識という言葉は多くの意味を持ちすぎているため、まずそれをそぎ落としていく。そこから議論を開始する。
本書の主張では、人が現代の意識を持つ前、二分心という意識の在り方をしていたそうだ。二分心では頭の中に神の声が聞こえてきて、それに従うのが自明とされていたそうだ。
その辺りの根拠は現存する当時の文章から持ってきている。およそ3000年前のものとされる「イーリアス」では、語彙の使われ方や比喩表現の違いから、意識と呼ばれるものがかなり違う構造をしていたとされる。
とまあ、一応まとめてみたけどほとんど理解できていない。根拠とされる重要な部分が古代の西洋とか地中海あたりの歴史の話に基づいているのでかなり理解しづらかった。主張自体も分かりやすいものではない。しかし、そういう仮説を立て、それに証拠を示しているという営み自体は素晴らしい。
そういえば、大学の学部1年の時に古代ギリシャ語の講義を取っていたが、あっさり落とした。あの単位を取れるぐらい勉強していればもう少し理解が深かっただろう。でも、文学部の3,4年が5人くらいしか受けていない講義だった。あの人達は研究や卒論とかで必要だったんだろうと今は思う。そんな所によく分からん学部1年の私はなぜ参加したんだろう。今思い出すと愚かすぎる。けど、大学の授業は高校までと違って、マジでいろんなことやってるんだなーってことが体感できた。そういう意味では良い体験だったかも。いや、やっぱり愚かだったな。過去の自分愚かすぎる。
言葉の獲得と心の発生は密接な関係があると見ており、これは他の心の哲学でもしばしば見られる。本書では特に書き言葉の影響を重く見ており、それが二分心から現在の心への変化のきっかけと見ている。
この本を手に取ったきっかけは、なんとなく本屋を歩いていて時に適当に手に取ったことだ。「神々の沈黙─意識の誕生と文明の興亡─」というタイトルは強烈すぎる。伊藤計劃の「ハーモニー」好きの私の前に本書のような主張があれば、読みたくなってしまうのはしょうがないことだ。かなり興味深い本だった。

 

9、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。/渡航
ラノベ。この年に11巻から完結の14巻までを読んだ。それまでの巻はだいぶ昔に読んだ。高校生の時とかに追ってた。大学1年の時くらいに最終巻が出て、買ってそのまま置いてた。なので、5年位の積ん読をようやく読み終えたことになる。精神的にこれは大きい。数年間本棚の一角に鎮座していた、読まれずの本を読むことができた。かなり大きなタスクをやり遂げた気分になった。
それとは別に、外山滋比古積ん読も、今年読み終えた。これも個人的快挙だ。昔ブックオフに大量に100円で置いてあった文庫を数冊買って、そのまま置いていた。それらをようやく去年読み終えた。
外山滋比古の文章力はすごい。例えば、「「読み」の整理学」という文庫は、読み方には2種類あるというテーマで成り立っている。その2種類の違いを色んな例を示し、様々な角度から論じる。文章の読みやすさもあるし、たったそれだけのテーマで最後まで書いており、結構面白く読めた。これも良い本だった。あと、色んな本で同じ話を何度もしているのも面白かった。作者が同じだしエッセイっぽい書き方だから、同じ話を使い回すのも分かるけど。それってありなんだって思った。あり、らしいです。
さて、俺ガイルについて。最後の1000pくらいは、さっさとくっつけという気持ちで読んでたというのが正直な感想。でも、その当たりのことに口実や建前が必要なのが、主人公の比企谷八幡という少年らしい。拗らせてるけど。
ストーリーの終盤では、終わらせることに焦点が当てられる。何かを終わらせることの重要性、必要性を考えながら、自分達の落としどころを探していく。その過程が寂しくもあり、どこか誇らしげでもある。
高校生の当時は八幡や雪乃と同い年だったのに、いつの間にか陽乃を追い越し、一番近い年齢は平塚先生だ。光陰矢のごとしとはこのことか。青春ラブコメしてこなかったな。しっかり恋してちゃんと振られておけばよかったと思う。ちゃんと区切りをつけること、それがほんとに大事。
あと、シリーズの後半の方だと、作者の労働への愚痴が多い。兼業作家は大変そうだなあ。

 

10、レッドゾーン/夏川草介
これも積ん読。2022年に読んでよかった10冊の本でこの前作の「臨床の砦」を挙げている。これを読んだのが2022年の10月あたりで、その時にはもう「レッドゾーン」は手元にあった。読もうと思っていつの間にか積んでいて、2023年の12月にようやく読んだ。1年以上積まれてた訳だ。
前作「臨床の砦」の続編にあたるのが本作。前作は新型コロナ流行の第3波の時の話で、激務のコロナ治療の現場が描かれていた。
今作は第1波、病院がコロナ患者を受け入れるところから始まる。本当に最初の方から。医者達もどこか他人事のようにコロナの惨劇を見ていた。国内の感染者数も数十人で、ダイヤモンドプリンセス号の感染者も横浜か関東の大病院で治療がなされるだろうと。それが急にコロナの治療をすることになる。本作を読めば、当時の現場の恐怖が伝わってくる。当時は何もかもが未知のウイルスだったのだ。そこに日本より一足早く感染が広がったヨーロッパの情報だけが入ってきて、恐怖だけが募る。そういった状況で患者を受け入れ治療をするということがどれほどのものだったのか。
今作は3人の医者に焦点が当たり、3つの短編が収録されている。一番面白かったのは、表題でもある「レッドゾーン」。皮肉屋で小心者の内科医・日進が、コロナ治療チームの一員に選ばれる。なぜ彼が選ばれたのか。そして新型コロナという未知のウイルスにどうやって医療をすればいいのか、という話だった。家族からも拒絶される中で、高尚な使命感を持っているわけでも無い、小心者から見た新型コロナが伝わってくる。

 

以上の5冊が後編。前回上げた分も合わせて10冊、2023年に読んでよかった本。他にもいろんな面白い本を読んだが、今回はなんとかこの10冊に落ち着いた。
前回のブログで言った目標以外にもう1つ今年の目標。それは隔週に1回はブログを更新すること。
前回の更新の時点で既に遅れているけど、薄目で見ると大体2週に1回上げてるように見えてくるはずだ。去年は何もしてない月とかざらにあったので、それはちょっとなと思った。読書もそうだが、ペースに最低ラインを設けたい。やる時はばーっとやって、やらない時は何もしないっていうのは、なんか嫌なので。
そんな感じで今年もだらだらと、ブログ更新していこうと思っております。
終わり

2023年の本ベスト約10冊 前編

年が変わってから既に2週間経っている。今更去年の振り返りをしたい。2024年の1月も既に半分が終わっている。本当に今更だ。

1年前も同じことをしたけど、1月7日には全部紹介しきっている。去年の自分偉すぎ、、、。

読んだ順にまとめるので、前の方ほど記憶がおぼろげだ。という言い訳をしつつ、読書ノートを取ってなかったことを悔やむ。

 

1,夜のピクニック/恩田陸

本屋大賞も受賞した青春小説。夜を徹して80キロ歩き続けるという「歩行祭」を通して描かれる高校3年生の男女の物語。

色んな人物が様々な思いと過去を持って出てくるのに読みやすくて、文体も優しかった。作品全体が丸い印象だった。人物の思いや悩みを真摯に汲み上げている。

母子家庭を抜け出して早く大人になりたい融に対して、友人の忍が投げかけた言葉が良い。その時にしか出来ないことがあり、見苦しくてもそれを求めるべきだという言葉は融を突き動かす。それとは別に、貴子はある賭けを歩行祭に託していた。色んな思いが交錯しながら、高校最後の行事、歩行祭は進んでいく。

こんな青春を送りたかったとも思うが、後悔するのも青春かもしれない。多分、どれほど上手く青春してても、後悔してただろう。作品になるほど綺麗なものではなかったが、それなりに良い高校生活だったかもなーとか思ったり。

 

2,女生徒/太宰治

14の短編集。

言わずと知れた名作家だが、あまり読んだことはない。かなり衝撃を受けた。

短編は全て主人公の女性の1人称視点で書かれている。そこでの思いや彼女達の感じたこと、世間への嫌気、自己意識、それら全てが重く綺麗に描かれている。全体を通して暗い話が大半だ。何かに悩み、それを拗らせていく女ばかりでてきて、それが救われる話はあまり無かった気がする。

かなり昔に書かれた文章だが、読みやすかった。また読みたいが、精神的に参っている時に読むのは止めておこう。

基本的に、選んだ10冊とも文章が巧みだが太宰の文章の上手さは独特な気がする。時代の隔たりのせいで、文体や語彙が違うことが原因だろうか。当時の人はこの文章をどう読んでいたのか気になる。

 

3,なめらかな世界と、その敵/伴名練

SF短編集。作者の6つの短編が収められている。これは太宰とは正反対に、文体が全作品バラバラ。作者の技量がすごい。青春小説って感じの1人称視点のものから、歴史書のようなもの、戦時頃の手紙形式のものなど、とにかく文体がバラバラ。それでいてどれも読みづらさはない。作者本当にすごい。

SF的なアイディアでは、表題でもある「なめらかな世界と、その敵」と「ひかりより速く、ゆるやかに」が独特だった(SFに詳しい訳では無いけど)。後者は物語ってしまうことの加害性にも触れていた。これは最近よく、フワフワと、考えては忘れている。何かを物語としてしまうのは人のもつ悪癖と言えるだろう。なんでも分かりやすくするため、理解しやすくするため、共感のため、あるいは消費のため、物語にする必要がある。いや、必要なくてもしてしまうからこそ悪癖かもしれない。そんなことを時々考える。その嫌らしさも。

伊藤計劃ファンとしては、「美亜羽へ贈る拳銃」はかなり良い作品だった。やっぱりハーモニーは最高。感情を技術で制御してしまうというのは最早鉄板のアイディアだが、王道にはその面白さがある。

 

4,闇の奥/ジョセフ・コンラッド

19世紀の船乗りの男、マーロウの話。彼は仕事でアフリカの奥地まで行くことになる。現地には象牙貿易をしているクルツという奇妙な男の噂があり、マーロウは段々とクルツに興味を抱くようになり、、、。という話。

アフリカの自然や原住民を横目に、河を遡上していくマーロウ。読んでいると段々と、彼の体験した世界に引き込まれてしまう。

知らなかったけど、この本は名作とされているらしい。名作と呼ばれるものには、その理由があるな。かなり面白かった。他の本でもその世界に没入していくよう感じるものはあるが、この本で感じるそれは、何か異常だった。アフリカのジャングルの中、河を船で遡上しながらクルツについて思考していく。段々と環境の認識が変わっていく様子が、こちらにまで伝わってくる。没入感がすごかった。

 

5,異邦人/カミュ

これまた名作とされている本。カミュは敷居が高い気がしていたが、本作は文庫で130pくらいだったので、読みやすいかなと思った。結果、読んで良かった。

主人公のムルソーは他の人と比べて何かがずれている。興味の対象とか、何を気にするかとかがずれている。コミュニケーションは普通にとれるが、倫理観とか社会性とか呼ばれるものが薄い。そのせいで色々しちゃう話。

その時々に正直に生きているという感じの主人公。将来のことを考えていないし不安にも思っていない。おそらく将来への想像力がない。そんな感じにその場その時感じたことに任せて生きているので作品にもムルソーにも一貫性が無いように感じた。そんな人間の視点から描かれている世界は、奇妙なんだけど面白くもあった。

細かな描写もなんとなく気にいった。カラッとした太陽の光や海の感じ。

 

そんな感じの5冊でした。残りは次やります。

あと、2023年は本を100冊読むという目標を立てたが、全然駄目でした。結果53冊。

うーむ。半分か。

失敗を踏まえての今年の目標は1週間に1冊本を読む、です。

年間トータルだと2023年と変わらないけどペースをもっと一定にしたい。去年は読んでいる月と読まない月で読書にかける時間が全然違った。読書してない時はずーーっとゲームしてた。月に1冊しか読まない時もあった。そのペースのムラをどうにかしたい。

と、言いながら最初の週からその目標は達成されず。ポケモンアルセウスをずーっとやってしまっていた。はい。ごめんなさい。いや、自分の目標を誰にも迷惑かけずに自分が破っただけなので、謝る必要はないけど。なにかに謝りたい。過去の自分にだろうか。とにかく申し訳ない。そう思った。

 

メディアの副流煙

日記

 

最近、煙草を毎日吸っているような気がする。

やべー。ニートなのに何で吸ってるんだろう。

働いている人が気晴らしで吸うのは分かる。悪ぶりたい中学生がふかすのも分かる。私はどちらでも無い。かっこつけたい訳でも、気晴らしが必要でもない。毎日毎秒気を晴らしてるから、張ってることがない。

はまっているのかもしれない。どつぼに。

ここ数年吸ってはいるけど、週に1本とかだった。どんな味だったけ?って思って吸って、やぱ不味いなーって思うだけだった。最近は毎日1,2本吸っているような気がする。ラッキーストライクという、吸いやすい銘柄を見つけたのも駄目だった。あれ、なんか吸いやすい。ウィンストンとかアメスピは苦手だったんだけど、ラッキーストライクは吸いやすいかも。個人の感想です。

理由もなく続けると習慣になるのでやめたい。Twitterを見ようともせず起動してしまうみたいになってしまう。

しかし、Twitterと煙草、どっちがましだろうか。どちらも5分くらいかかるものだとして、どちらがましだろうか。

Twitterやっててよかったことなんてほとんどない。無いとは言えないけど、眺めている時間に対して明らかに釣り合いがとれていない。煙草の副流煙とか受動喫煙とか言うけど、メディアの副流煙の方がよっぽどだと思う。

やってたら絶対目に入る広告とか、一瞬だけ見てすぐスクロールするクソ投稿とか、気にもとめないそれらの情報は、結構頭に残ってたりする。見てないテレビで流れている音楽で、流行りを知ったり。私が持っている偏見や情報のうち、大体はそれらの副流煙のせいだと勝手に思ってる。本当に知りたいと思ってメディアに向ったことは、あまりない。眺めてて、面白そうなものに立ち止まるだけだ。

そんなに嫌なら、止めればいいのに。やめるきっかけもあまり無いんだけど。一度炎上でもして痛い目みるか。そうすれば止められるかも。

いや、もっと暗いどつぼにはまっていくような気がする。

 

煙草の副流煙はフィルターを通していない分、吸う本人より有害物質が濃いらしい。しかし本当だろうか。副流煙はかなり空気に希釈されるので副流煙をそのまま吸うことなんて絶対ない訳で。大体どのデータもその割り算を省いている気がする。例えば風通しのない部屋でも数メートル離れているだけで、煙草の副流煙はかなり空気で薄められるはずだ。そこを計算に入れているのだろうか。

まあ、匂いは結構きつい。嫌いな人はかなり嫌いだろうから配慮するべきなんだろう。メディアもね。もっと配慮してくれ。課金したら広告見なくて良いって何だよ。広告は罰ゲームですか?

メディアも煙草も副流煙がある。そんなことを思った。

禁煙します。

 

終わり。