montokokoroの日記

悶モンって名前でTwitterしてます

社会性メンテナンス

悶モンです。

社会性とは人とコミュニケーションすることでメンテナンスする必要がある技能だと最近気付きました。

道具にはメンテナンスが必要です。自転車のチェーンに油を差してタイヤに空気を入れるように、ほとんどの道具にはメンテナンスが必要です。

人の持つ社会性という技能もそれが必要で、メンテナンスを怠るとキイキイと音を立て、少しの段差にも強い衝撃を感じるようになります。

大学卒業後ニートになって数ヶ月して、大学時代お世話になった教授や目上の人達と会う機会がありました。その場では意外とニート咎める人はいなかったです。しかし、ほとんどの人が口を揃えるように、人を会うようにしなさいとのアドバイスを送ってきました。当時は軽く流していたその言葉の意味が最近分かった気がします。社会性も1つの技能で、劣化するんです。それを止める方法は人と会って話すことなんだと思いました。

久々に初対面の人と話す機会が最近ありました。ニートになってから会う人はほとんどニート以前から知っていた人ばかりだったので本当に久々の体験です。そこで自分の社会性が落ち込んでいることに気付きました。用事が済んで、寝る前に一人ベッドの中でその日の出来事を思い出すと、色んな反省点が浮かんできます。そのほとんどが昔は出来てた気がします。ちょっとした気遣いが出来ない、気の利いた返事がとっさに出ないなど、一緒にいて面白くない人間になったなあと思います。

 

また、一人でいると思考は極端になりがちです。なるべく多くの他人とすり合わせることで平均的な態度がどの辺りにあるのかが分かるので、一人で籠もっていると思考は散らかったままになります。

 

身体のメンテナンスも必要です。不摂生を避け、適度な運動をして健康な状態に身体を維持する。睡眠時間だけは十分とっているつもりだけど、睡眠欲に正直なだけなのもバランスが悪い。ニートは眠くなったらすぐ寝てしまう。これは睡眠欲に振り回されているだけです。ほかの欲求と同じく、発散のタイミングを見極めないといけないんでしょう。最近また午後に目が覚めるようになってきたので、朝起きれるように調整する必要があります。

最近ハローワークに行ってきたので、身体も精神も社会向けに適応させる必要があるようです。その話はまた後で。

それではさようなら。

 

終わり。

北極の反対はどこ?

「好きの反対は嫌いではなく、無関心だ。」という言い回し。誰が最初に言った言葉か分からないけど良いフレーズだと思う。

なるほど、と思う一方で、ならば嫌いの反対は何だろうかとも思う。

嫌いの反対もその人から言わせれば多分無関心なんだろう。好きも嫌いも対象への関心が高い状態である。印象が良いか悪いの違いだけで、関心は高いのだ。なので好きの反対は無関心で、嫌いの反対も無関心。

さらに言えば、無関心の反対は何だろうか?無関心の反対は関心が有ること。好きか嫌いかはどちらでもよい。

 

北極の反対は南極だろうか?それとも赤道?上記の理屈と合わせるなら北極の反対は赤道で、南極の反対も赤道。北極は北緯90度で南極は南緯90度。緯度の極みで、南か北かで違うだけで赤道は緯度0度。赤道の反対は北極か南極だ。

 

赤道の反対は緯度0度ではないという意味では赤道以外の地球上のあらゆる場所とも言える。そもそも問いが不完全なので、回答は一定ではない。条件を回答者が設定できてしまうので。反対とは対のもう一方である。対で存在する概念以外に反対を聞く質問はやはり回答が1つになるはずがない。左の反対は右。正の反対は負。では、和食の反対は?洋食か中華、フレンチ、あるいはレーションか。和食以外という答えは和食の反対ではなく、和食の否定のように見える。和食と和食以外というのは、反対の関係として綺麗ではない。

対がない物にも反対があると仮定し、回答のために採択された条件に回答者の思考の傾向が読み取れるのかもしれない。

 

こういうとりとめの無いことを考えるのは大体眠れない夜です。

 

終わり。

1周年!

悶モンです。これが名前です。今更ですが。

大体1年が経ちました。1周年です。いやあ、めでたい。

何の1年かというと、私がニートになってからです。非常にめでたい。

祝ってください。

 

去年の今頃、大学近くの学生寮を卒業とともに退去し、実家に戻ってきました。

確か3月15日だった気がする。まあ大体3月中旬です。

大卒ニートでもうすぐ1年。

いやあ、長かったようであっという間でした。何もしてないので思い出すことがあまり無いんですけど、短い。惰眠とゲームの記憶がほとんどです。実家に帰省して最初にしたのはPS3の購入でした。なぜPS3かというと、メタルギアソリッドシリーズが全部出来るからです。面白かったなあ。未だにストーリーをよく理解してない気がするけど面白かった。FF13とかも中古のやっすいソフトを買ってプレイしました。その後ニートも半年が過ぎた頃、switchを買ってしまったのがまずかった。スプラ3を発売当日に購入し、その月はそれしかしてませんでした。その後モンハンサンブレイクを買ってしまい、今のプレイ時間は400時間を超えます。スプラや他のゲームも合わせたら500時間くらいはswitchでゲームしてた。仮に500時間、いやせめて半分の250時間くらいバイトや資格勉強に費やしていたら、、、。いや、この手のたらればはやめよう。誰も幸せにならない。

 

1年前は半年くらいニートしたら、正社員は無理でもバイトか派遣あたりで労働してるだろうなって思ってました。多分半年もニートしたら飽きるだろうなって。

甘い。自己評価が未だに定まらない。人間の怠惰さって底なしです。大学時代も怠惰に過ごしてたらすぐに4年が過ぎました。(一応留年せずに卒業できた。)この1年も本当あっというまでした。次の1年は、、、。

 

今年1年はどんな1年になるのかなあと思ってます。いや、なるのではなく、するが正しいんでしょう。だって自分の人生なので。このあたりの言葉づかいから主体性の無さが表れてます。プランクトンみたいに流れに逆らうことなく生きていきたい。ネクトンにはなれない。久々の更新で病んでる。

 

終わり

映画感想。「映画大好きポンポさん」

映画「映画大好きポンポさん」見た。

ネットフリックスは偉大。

 

あらすじ

映画の街ニャリウッドの映画製作会社ペーターゼンフィルム。B級映画ばかり作っているが腕は確かな映画プロデューサーのポンポは新作映画の脚本を完成させる。彼女が監督に選んだのは普段彼女のアシスタントをしているジーンだが、初の監督でジーンは戸惑ってしまう。同じくポンポが抜擢したヒロイン役のナタリーも初めての映画出演に戸惑っていた。果たしてどんな映画が出来てしまうのか。そもそも完成するのか。

 

感想(ネタバレ)

 

 

狂気じみてる。ジーンの奇行をずっと見せられる。クリエイターって皆こうなのか?

ジーンはヒロアカの主人公、緑谷出久から筋肉をそぎ取って目の下にクマを付けた感じ。華やかな映画の街で1人だけじめじめしてる。めちゃくちゃ映画オタクで感想とか撮影技法をノートにメモしてる。

普段はきょどってて自信が無くて、ザ・陰キャって感じのジーン。だけど、めちゃくちゃ作品に対してストイックで、監督就任してから周りに(主にポンポとスポンサーに)めちゃくちゃ迷惑をかける。撮影は結構順調だった。問題はそれから。撮影した映像を編集するジーンだけど、彼の奇行はここからが本域だった。まず、編集が終わらない。撮影が良すぎて、シーンを削れない。

その上で足りないシーンがあるので追加撮影したいとか言い出す。スタッフの管理はプロデューサーのポンポの仕事なのでめちゃくちゃ負担になる。解散したスタッフと俳優をもう一度招集するってめちゃくちゃだ。しかも彼女の脚本に、いまさら不足があるって言ってる訳なので。で、追加撮影のためにスケジュールがおして、スポンサー向けの試写会が中止に。スポンサーは降りて、追加撮影も宙ぶらりんになる。

スポンサーは結局ジーンの同級生で銀行員をしているアランのおかげでどうにかなったけど、スポンサーが降りるのも理解出来る。元々初監督と初映画の女優という不安しかない状況で、試写会出来ませんでしたーだからね。スポンサーがどうにかなって追加撮影もなんとか出来た(撮影はどうにかなっちゃうのがすごい)。で再びジーンの編集作業。徹夜は当たり前で集中。でも集中しすぎて過労で倒れて入院する。ここで誰かに譲ったら自分の作品じゃなくなるって、病院から抜け出して編集。なんとか2度目の試写会には間に合った。ここも、試写会に間に合わせるために病院を抜け出した訳では無い。あくまで自分の作品にするため。

こんな感じでした。ポンポさんの幼少期の話と映画に懸ける思い、同級生のアランの現状への不満とスポンサー確保のために覚悟を決めたプレゼン、初映画の素人女優ナタリーとか、その辺りの話も面白かった。でも、それはジーンの奇行と覚悟のおまけ程度。

ジーンの奇行の一方で、この映画の主題は良い作品を作るために他のあらゆるものを捨てる覚悟の話。ジーンは映画のために他の一切を自ら捨ててきた。青春、友人、家族。それほど映画が好きだった。対照的なのはスポンサーをどうにかした銀行員のアラン君。ハイスペックで社交的で、大手の銀行員になってる。彼は彼で現状の自分を空虚だと思っている。それを変えるための勇気と覚悟のプレゼンだった。首になってもおかしくなかった。

撮影した映画もそういう話だった。世界的な指揮者が傲慢さで失敗し、スイスの田舎でヒロインと出会い何かを取り戻し復帰する。でも、音楽のために家庭を捨てた過去もそのままだ。

等価交換。良い作品のため、自分の表現のため、他の一切を捨てる。

こういう生き方は、挫折した時つらそうだ。何も捨てず、何も選ばずゆっくり腐っていくニートはこういうスタンスは想像するしかない。映画のために他のすべてを捨てたジーンから映画を取り上げられた時が来たら、彼はどうするのだろうか。スイスの田舎に行くのだろうか。それともニューシネマパラダイスでも観るのだろうか。

ジーンの迷惑千万な奇行にもかかわらずポンポやスタッフ、役者たちは彼を憎んでいない。それは彼の映画にかける一途さと確かな腕を買ってるからだ。

エヴァ庵野もそんな感じなのかもしれない。

クリエイターの狂気を観た。そんな映画だった。

 

今年初めての観た映画だった。映画というか映像作品に対して思うことがあったのでしばらく観なかった。それは音楽について。私は感動的なシーンではなく、その時かかっていた曲に感動しているのではないかと思ってから、しばらく映画を観る気になれなかった。ポンポさんでもそういうシーンが何度かあった。自分の中で確かに感動は起こっている。けれどこの感動は別にこのシーンが原因ではなく、後ろでかかっている挿入歌のサビのせいではないのか。山場ではある。驚きもある。でも、感動するほどのシーンなのかと考えた時にどうしても挿入歌が邪魔に思えてしまう。特に日本語の歌詞付きの歌はそう思えてしまう。作中の会話を追いながら、日本語で歌っている歌詞の方の意味や雰囲気も感じ取ってしまう。「君の名は」は当時映画館で観てすごく感動した。けど、私は映画に感動しただろうか。RADWIMPSの曲が適切なその時の感情を指示し、それに従ったに過ぎないのでは無いか。なら、それは映画というよりRADWIMPSの壮大なPVではないか。

そういったことを思ってしばらく映画を観る気になれなかった。なぜ今回ポンポさんを観たのだろうか。正直明確な動機があるわけではない。多分、ネトフリの月謝払い続けてるのに何も見ないのもったいないし、解約も面倒だったからというのが一番正直な理由かもしれない。あと、悩んだり考えたりし続けるのは疲れる。しかもこの問いはめんどくさい。曲に感動してもいいじゃん、とも思う。挿入歌もBGMも映画の一部じゃん。それに心を動かされるのがなぜ行けないの?

映画を観る動機は常に一定な訳が無い。暇だったからというのも大きい。何が原因で感動するかも一定なはずがない。その時の自分にも大きく左右される。動機、因果、自分のポリシー。そういったものは一定ではない。

 

終わり。

2月に読んだ本

2月に読んだ本の紹介。ネタバレとか気にせず書いてるので、ご注意ください。

 

女生徒/太宰治

全て女性の一人称視点で書かれた14の短編を集めたもの。

太宰治の作品をちゃんと読んだのは初めてだったが、まず文章力がずば抜けている。

短編の主人公達は全員生きづらそうにしながら、理想とかなにかを求めている。しかしその求めているものが何なのか自分でもよく分かっていない。

たった4Pの「待つ」が素晴らしい。女性が駅のベンチに座って誰か、いや、もっと漠然とした何かを待っているだけだが。彼女は何を待っているんだろう。自分でも分かっていない何かをずっと待っているだけ。

すごい文学作品の感想を自分の拙い文章で感想を書くことは難しい。とにかくすごい。

 

光のとこにいてね/一穂ミチ

百合。

主人公は小瀧結珠(ゆず)と校倉果遠(かのん)の2人で、どちらも女性で同い年。この作品は3章構成で、1章では小学2年生の時に2人が出会い、2章では高校生の時に2人が再会する。3章では大人になりそれぞれ家庭を持ってから再び再会する。つまり2人の女性の出会いと別れの物語。

2人の視点が交互に入れ替わりながら地の文が書かれており、その交代がかなりの頻度でなされるので、同じ出来事に対してリズミカルに2人の心象が描かれるのは面白い。例えば第2章冒頭の2人の再会。ゆずは私立の一貫校の女子校に通っており小学校から(あるいは幼稚園から)高校まで同じ系列の学校に通っている。その高校にかのんが入学するところから始まるが、2人はそれぞれ顔を一瞬見ただけで互いを認識する。小学校2年で別れたっきりなのに。ゆずは突然の再会と一気によみがえる記憶に驚く。その後にすぐかのんの視点で文章が書かれ、その時は一言も言葉を交わさないが、その再会はかのんがずっと待ち望んでいたものだと分かる。小学校2年の時にゆずが来ていた制服から私立の一貫校に在学していることを突き止め、貧乏な家庭のかのんが特待生で高校に入学するためにどれほど努力をしてきたかが分かる。ほとんど忘れていたことを不意の再会で思い出しただ驚くだけのゆずと、ずっと待っていた再会なのに、その場では言葉を交わせないかのんの複雑な気持ち。こういう風に2人が同じことに対してどう思っていたのかが頻繁に交代される地の文で明かされていくのは面白かった。

この本の主題はゆずとかのんの関係で、それは純愛だと思う。ドストレートの百合だ。1,2章はそれがすごく描かれていて百合豚の妄想を煮詰めたような展開と描写が続く。正直、胃もたれしてしばらくそこから読めなかった。対照的な2人の性格や家庭とか、親の都合で1,2章どちらも理不尽に別れるとか、メロドラマって感じ。

だが3章で再会する時にはお互い家庭を持っており、2人はお互いだけを見ていれば良い訳では無くなる。で、問題はそこで描かれたそれぞれの家庭の気持ち悪さと居心地の悪さ。かのんは夫と7才の娘がいるんだが、家族っぽくない。良く言えば娘に対して放任主義で、夫には恩義を感じている。3章のスタンスとして、「他人は他人、自分は自分。共有する感情や過去はあるけど、絶対に共有出来ない部分もあって家族でもそうでしょ?」っていう姿勢をかのんもゆずも持っている。家庭というものが一番近い他人くらいの繋がりだ。いや、全ての家庭はそうなんだけどね。でもこの家庭はアンチ映画版クレヨンしんちゃんって感じで、家庭特有の熱やつながりがあまりにない。子供の時のかのんは父を知らず、貧乏な母は歪な思想と拘束を押しつけていた。母の地元に行ってからも祖母から愛情なんてものは受けなかった。ゆずも何不自由ない裕福な家庭と教育だったが、彼女に与えられるものは母から用意されたものしかなく、父と年の離れた兄は不干渉だった。どちらも系統の違う不健全さの家庭だった。その不健全さが彼女らが母になっても再生産されているのは結構つらい。まあ、よく言えば2人の純愛を照らすために歪な家庭と家族の価値観があるとも言えるけど。

純愛とあえて言ったけど、2人の関係は名状しがたい。山場っぽい場面をあっさり描いているのは惜しい気がするけど、私が読んでてあまり乗れてなかったかもしれない。

 

推し、燃ゆ/宇佐見りん

ある男性アイドルを推すことでしか生活の実感を得られない女性の話。この主人公は推しのこと以外では、家事や勉強など一切駄目でどうしようもない。そのどうしようもなさが憎めないし、実際何かしらの病気の診断もある。しかし周囲の人間は離れていく。彼女の前にはますます推しを推すことしかなくなる。

推しを応援して、あらゆる情報を取得して彼のことを解釈することが彼女の生きがいで、物語の前半くらいまでは彼女のことより推しのことの方がよく分かってしまう。それほど推しを分析しているし、彼女にはそれ以外のことがなさ過ぎる。

彼女と推しの関係性がずっと固定しているのも良かった。ずっとファンとアイドルのままで、彼女の推しのスタンスは変わらないままだった。偶然彼とお近づきになり、裏の姿を見てしまうとか恋愛関係になるとかは一切ない。なので彼女は出される情報のみで彼のことを分析していくだけ。冒頭の推しの炎上に関しても憶測やネットの噂はあまり気にせず推しの言うことを待つ姿勢で、結局真相は分からない。

推しの誕生日にホールケーキを注文して1人で無理矢理全部食って吐いてしまうエピソードが良い。途中苦しくなりながらもなんとか全部食べきるんだけど、吐いてしまう。これに彼女の推し方が表れている。

アイドルや芸能人にはまって生活も思考もその人中心になってしまうみたいな経験がないので、強烈だった。何かを推すことで生きているが、そのためにいろんなものを犠牲にして生きづらくなってしまう。そこまでして生きて、それって何なんでしょうか。でも、生きないといけないので。

 

すべてがFになる/森博嗣

良かった部分と悪い部分がはっきり分かれている。トリックはかなり驚いたし、そのための物語も面白い。久々に徹夜して一気に読んだ。だがそのためにいろんな部分がおろそかになっている印象。

登場人物と事件の舞台、容疑者達、そして肝心のトリック。奇妙な舞台で謎が起こりつつ、ついには殺人が発生する。調査する中で新事実や人物の背景、嘘、怪しい人が出てくるけど、はたして意外すぎる真相とは?という流れが最高すぎる。まずトリックが面白すぎるしタイトルの「すべてがFになる」のメッセージの回収もおしゃれだ。

その一方で、いろんなところで無理が生じている。

まあ、いろいろある。

結局、面白いトリックを実現させるためにキャラクターのいろんなところがよく分からなくなってしまった。目的のための手段として今回の計画殺人があったとする。そうすると目的はなんだったのか、その手段しか無かったのか、とかとか。とにかくいろんな疑問が生じる。

 

四畳半タイムマシンブルース/森見登美彦

オタクがちょうど読みたい物語とキャラクターなんだけど、ちょうどすぎて気持ち悪くなってしまった。これを読んで面白がっている自分を見て気持ち悪くなる。

昔四畳半神話体系を読んで京都の大学性への憧れをこじらせたのを思い出してまた気持ち悪くなってしまった。

自分の大学時代、何もしなかったし、何もなかったな。

美人でクールな後輩に「先輩」って呼ばれたい。経歴不詳の仙人みたいな先輩と遊びたい。こういう願望がちょうど良い温度で作品にされてて、オタクの気持ち悪い部分が鍛えられる。こういう読み方も気持ち悪い。

表紙の中村祐介のイラストも、読み終わってから見てみるとあちこちが面白い。

 

火狩りの王(2)/日向理恵子

やっと2巻まで読んだ。この巻の後半あたりからは「世界」という言葉が何度も出てくる(以前からそうだったのかもしれないけど)。どうしようもなくなってしまった世界に対して、それぞれのキャラクターが抱く期待や感情が直接描かれてきてこの作品が伝えたいことが多少分かった気がする。まあ、まだ半分なので。4巻で完結らしい。5巻はキャラクター達にまつわる短編集らしい。

 

女生徒/太宰治

光のとこにいてね/一穂ミチ

推し、燃ゆ/宇佐見りん

すべてがFになる/森博嗣

四畳半タイムマシンブルース/森見登美彦

火狩りの王(2)/日向理恵子

 

2月は6冊読んだ。

1年100冊計画、どんどん遅れています!

まあ、遅れることにかけては一家言あるので。

大丈夫。遅れこそ人生です。

 

終わり。

悶々日記

日記。

 

この数日ずっともやもやしている。

本読もうと思いながらページを開くのがめんどくさい。

ちょっとだけするつもりでswitchの電源をつけて、数時間モンハンかスプラをしてしまう。

私の毎日ずっとこんな感じです。今までの人生もこんな感じでした。これからもこんな感じでしょう。

本当にやりたいと思っていることややらないといけないことを棚に上げて、手近な簡単にできることをしてたら時間切れになっている。

人生これからだって思っているうちに終わるんだろうなあ。

 

毎日に区切りがないので、思いっきり休むみたいなことが出来ない。何かに思いっきりのめり込むみたいなこともない。結局、毎日だらだらしているんだけ。ニートってこんなもんだと思う。

 

今、火狩りの王の2巻を読んでる。4巻がもうそろそろでるので、さっさと読んでしまいたい。というか、既に出てるかも。

 

終わり。

黄泉のツガイ。ハガレンと比べるな。

日記

荒川弘の「黄泉のツガイ」3巻読んだ。

面白くなってきたなあ。

2巻までが面白くなかったみたいな言葉だけど、実際そう。

荒川弘はあの超名作「鋼の錬金術師」、通称ハガレンの作者。必然、黄泉のツガイをハガレンと比べてしまう。ハガレンと比べると2巻までは微妙だった。十分面白いけど物足りない。

黄泉のツガイとハガレン。この比較は全然対等ではない。私の中のハガレンは27巻かけて丁寧に作られた名作で、2度アニメがあって、それらを子供の時に経験したっていう思い出補正込みの最強コンテンツ。それを3巻までしか出ていない黄泉のツガイと比べるのは対等ではない。

でも比べちゃうよね。しょうがない。

3巻はある程度過去の話が展開されて、多くの謎が残りつつも物語の全容が掴めた。問題は、悪い奴は誰なんだろうってところ。過去の悪行の親玉も、今から悪いことしようと企んでいる奴も。皆色々企んでて、出てくる組織も一枚岩ではなく裏切りとかありそう。そういう意味で面白くなってきました。

解と封。貰えるならどっちが欲しいかな。

終わり。